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2010年2月27日 (土曜日)

マンデラの名もなき看守

 南アフリカで開かれたラグビーワールドカップとマンデラ大統領の隠れたエピソードを紹介した映画「インビクタス・負けざる者たち」を見てきました。決勝戦にマンデラ大統領が現れた時の様子は今でも覚えていますが、あの劇的な南アフリカ優勝の陰でこんな物語があったとは知りませんでした。

 当時は確かにアパルトヘイトの象徴だった代表チーム「スプリングボックス」がどうなるのか、ということが話題になっていました。当時は、ここまで劇的な物語があったとは考えも及びませんでした。

 ところでインビクタスを見て、年末にCS放送で録画したまま見ていなかった映画「マンデラの名もなき看守」(2007年)が気になり出しました。気軽に見るには内容がとても重そうだったので、見ないで放置していました。

 作品は、国家反逆罪でとらわれの身だったマンデラが収監されていたロベン島に主人公の白人看守が着任し、マンデラが自由の身で解放されるまでを描いたものでした。「インビクタス」がマンデラの釈放のシーンから始まっていましたが、ちょうどインビクタスの前編に当たるものでした。

 インビクタスの中でも触れられていたのですが、私には知識不足でよく分からなかった部分-アパルトヘイト時代の黒人と白人の溝、ロベン島の刑務所の様子、そして、なぜマンデラが処刑されずに27年間も収監されていたのか、などが詳細に描かれていました。

 僭越ですが、合わせて見ると、いっそうインビクタスが楽しめる映画だと思います。

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2010年2月26日 (金曜日)

月はどっちに向いているか

 25日の北海道新聞札幌市内版にこんな記事が出ていました。寂しい限りです。


 運動場の存続を*市有地売却*13カ所の団体訴え

 

 札幌市が市有地の売却を進める中、運動公園として無償貸し出しを受けてきた13カ所の地元団体が、「売却しないで」と存続を訴えている。売却方針は市の行財政改革の一環で、管財課は「厳しい財政状況であることを理解してもらった上で、新年度中に売却したい」としている。

 市は学校や公園予定地などとして購入したものの、使わなくなった土地を地元町内会や老人クラブ、体育振興会、地元団体などに無償で貸してきた。現在、13カ所を借りている団体などから存続要望が出ているという。

 このうち、元小学校建設予定地で、地元の運営委員会が借りている豊平区東月寒の市有地(1万5860平方メートル)では、30年前から地元住民が野球場を整備して地元少年野球チームや小学校の部活動などに使っており、冬には町内会の雪中運動会も開催。

 地元住民は「こども広場」活用推進委員会をつくって、広く地元の活動に役立つ場としての存続を訴えている。同委員会の西川洋成事務局長は「市に使用料を支払う形でもいいので、地域の人たちが世代間交流もできる場として残してほしい」と訴えている。

 市は2008年度から、地元団体に無料で貸していた39カ所について、団体の理解を得られた順に売却を進めている。16カ所が計10億円で売却済み。5カ所は売りに出しており、5カ所は住民の納得が得られたことから、新年度中の売却を予定している。



 このマチの姿勢がうかがい知れます。どんなにあがいても市有地の売却程度では財政赤字の改善には焼け石に水のはずです。市民の共有財産という認識がないのでしょうか。どうせマンションが建つの関の山でしょう。

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2010年2月23日 (火曜日)

ガス爆発

 21日の日曜日は、夜勤明け+飲酒で寝てました。午前10時ごろ、携帯電話が鳴りました。本社からの電話でした。「苫小牧の飼料工場でガス爆発があって、どこかの社が空撮のヘリを出したらしい」。惰眠を貪っているところをたたき起こされました。

 日曜日の出番でなかったので、当番の人に連絡して、消防署のHPで火災状況を確認しました。「晴海町で火災出動」とありました。

 さて、日曜日の会社は当番の2人が出ているだけで、大事件、大事故があった時は即座に対応ができません。おそらく苫小牧にいる人間を集めるだけで小一時間はかかってしまいます。大事故なら一刻も早く、現場に行かなければなりません。そこで昔取った杵柄といいますか、ロートルもカメラを出して、現場に駆けつけました。

 この朝は見事な快晴でした。車を走らせて跨線橋から火事現場の方を見ても、炎どころか煙も上がっていません。港に向かっていくと、道路の入り口にパトカーがとまっていました。しかし、遠くから見た飼料工場は何も変わっていないようです。

 しばらく車を走らせて、工場の横まで行くと、消防車が見えました。何の自慢にもなりませんが、現場には一番乗りでした。

 下から見た工場は巨大な倉庫のような建物の鉄板の一部がめくれているところはありましたが、破損はほんの一部のようでした。写真を撮っていると、携帯が鳴って、「死者なし。大きな事故ではない」との連絡があり、そそくさと撤収しました。

 翌朝、新聞をめくってみると、屋根がめちゃくちゃに壊れた空撮の写真が出ていました。爆発の激しさを物語っていました。私の取った写真は意味がなかったようでした。

 日曜の朝から闇雲に走り回った、どうでもいい話でした。

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2010年2月19日 (金曜日)

国母7位

 出張から戻りました。スノーボードの国母選手は7位でした。金メダルを狙いに行って、届きませんでした。競技を終えて、国母選手は「自分のスタイルを曲げなかったのはいいことだと思う」「いろいろあったけれど、滑れたことには感謝している」と話したそうです。

 北海道新聞の記事には、「『スノボの格好良さは、その人にしかないスタイルにある』。国母選手は、それを目指すのが自分の仕事だと言ってきた。」とありました。自分のスタイルへのこだわりは十分に伝わったと思います。間もなく50歳の私には彼の態度やファッションはとても「クール」といえるものではありませんが、実はシャイで意外にいいヤツなのかもしれません。人を外見だけで判断してはいけないようです。

 私としては、頑なにスタイルにこだわる彼がスタイルを曲げて、銀メダルを狙いに行って欲しかった、と思うのです。

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2010年2月14日 (日曜日)

五輪

 バンクーバー五輪が始まりました。五輪の関係で昨日(13日)から18日にまで札幌に出張しています。実質的な競技初日はジャンプ陣が失速、期待のモーグルも上村が4位どまりと、厳しい出足となったようです。

 開幕前に最も話題を呼んだのは、スノーボードの国母選手の服装の乱れでしょうか。賛否両論渦巻いているようです。昨夜も出張先で仕事をしていると、「日本人として恥ずかしい。あなたもそう思わないか」という電話がかかってきました。

 この事件をめぐっては、全日本スキー連盟の会長が「大いに不愉快」と激怒して、出場辞退問題にまで発展しそうになったようです。スポーツ紙では「国母という男」というような記事もありました。

 国母選手のことは詳しく知りませんでしたが、11歳でプロになり、海外を転戦してきたそうです。自分の力で道を切り開いてきた。年が若いとはいえ筋金入りのプロです。

 あの場であいいう服装(着こなし?)がTPOにあっていたかどうかが議論を呼んでいるところではありますが、ヒップホップにファッションや人脈が近いスノーボードの世界で10年近くもプロで生き抜いてきた彼にとっては、とても「クール」とはいえない正装を、ああいう形で〝着こなす〟ことは彼なりの歩み寄りだったのかもしれません。ただ、今回は彼なりのプロの流儀や自己主張が、アマのスポーツ界の重鎮の方々の感情を逆なでし、過剰とも思える反応を引き起こしたようです。

 かつてスノーボーダーはスキー場の邪魔者扱いをされていました。初期のスノーボードの選手たちには当然、既成の競技団体などの支援もなく、自分たちの力だけで競技を広め、プロの道も自分で道を切り開いてきたと思います。おそらく競技団体の偉い人たちに敬意や恩義を感じる立場にはないと思います。

 スポーツの世界は、企業スポーツの縮小で大きな変化を迫られている中で、態度や服装はともかくとして、立派なプロである国母選手に対して、アマの甘ちゃんの幹部たちが権力をかざしてバッシングに走る姿には違和感を感じます。固定観念にとらわれ、寛容の精神や自由な発想を欠いたまま旧態依然の姿で突っ走る日本の現状そのもののようにも感じます。

個人的には、国母選手に奮起してもらって、メダルを手に「F○○K、○○○」と叫んだら見もので、衝撃的だなあ。朝青龍並みの大ヒールの誕生でしょう。だけど、そんなことしたらメダル剥奪だな。

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2010年2月12日 (金曜日)

葬式

 11日は、大学の野球部時代の同期の奥さんが亡くなり、滝川まで葬式に行ってきました。奥さんは享年52歳、ガンとの2年7カ月の闘病生活の末、夫と高専4年生の息子さんと高校1年生の娘さんを残して先立ったそうです。

 告別式を終えて、葬儀場のロビーで参列者にあいさつした彼は、「病気と分かって仕事を辞め、好きな庭いじりや旅行を楽しんだ、この2年7カ月が私と結婚をして一番幸せだったと言ってました」と言って声を詰まらせました。そして、「この2人の子供たちを幸せにすることが私の仕事です」と、あいさつを締めくくりました。

 自分のことですが、私の母親が亡くなったのは、私が就職した1983年の6月でした。私は22歳。亡くなった母親は54歳でした。彼の息子さんは私より3つ下、亡くなった奥さんは私の母の2つ下です。彼の家族はこれからどう暮らしていくのか。妻を亡くした彼の気持ち、子供たちの気持ち、お母さんのいなくなった家は寂しいものです。

 葬儀に参列した野球部の同期の連中とは帰り際に、「最近は葬式でしか顔を合わせないけど、次に会うのはいつかな?」と言って分かれました。50歳に近づくと、いろいろあります。

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2010年2月 8日 (月曜日)

103センチ

 週末は苫小牧でそれなりの積雪がありました。7日には積雪が23㌢までなりました。歩道の雪が解けて、走りやすくなったと思った矢先に雪景色に逆戻りしました。

 日差しは日一日と強くなってきています。そうなると、気になるのが定山渓グラウンドの積雪状況です。小金湯のアメダスポイントでは7日に103㌢となりました。きょうは少し雪解けが進んで1㍍を切ったようですが、やはり定山渓ですね。

 ちなみ今年を含めて過去10年間の7日現在で最も積雪が多かったのが、2005年の176㌢でした。1㍍を超えている年は5年、1㍍未満は5年で半々です。これからどか雪が来ることもありますので、今年の雪解けが早いかどうかは今のところ分かりません。ただ、7日現在で176㌢もあった2005年の雪解けは4月27日でした。こうはならないことを祈っています。

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2010年2月 4日 (木曜日)

氷点下15・5度

 きょうは冷えました。苫小牧で氷点下15・5度まで下がりました。15度を下回るのは、4年ぶりだそうです。昨日というか、今日の未明というか、市内の某所から自転車で帰ったときに、十勝の本別にいたときのような寒さを感じました。

 ただ、氷点下15度くらいの冷え込みは十勝では序の口です。10年ほど前に住んだ本別町は、「日本一寒い町」の陸別町の近くにある町です。本別、足寄、陸別3町の十勝東北部は北海道でも最も寒い地域です。特に12月から2月にかけて2カ月以上も真冬日が続き、最低気温は氷点下10度以下は当たり前でした。日没して1時間後には氷点下15度くらいになります。

 十勝にいる時にマラソンを始めてましたので、1週間に2度は仕事を終えてから極寒の夜に外にランニングに出かけました。十勝は雪が少ないので、冬の間でも舗装道路の路面が出ているので走ることは支障がありません。コースは往復10㌔で、小1時間ほど。戻ってくると、まゆ毛やヒゲが凍り付いていました。

 1㌔ほど走ると周りは畑。外灯もない夜道ですが、足下くらいは見えます。新月の時は闇に包まれ、夜空に天の川が横たわり、星が輝きを増します。満月に近くなると、こんなに明るいのかとも思うくらい、畑の奥まで見渡すことができました。

 一番困ったのは1時間くらい走っていると、指先が冷えてしびれてくることでした。そのため、何種類も高級な手袋を買っては試しました。最終的に使えたのは、ホームセンターで1000円くらいで売っていた毛皮のミトンでした。

 今考えると、何であんな寒い夜にわざわざ走っていたのかと不思議に思います。

 そういえば、本別高校の野球部が真冬の鍛錬で、陸別から本別まで50㌔を走り抜くトレーニングをしていました。その日の最高気温は氷点下12度だったと思います。選手の話を聞いているうちに、指が凍り付いてきてメモがうまく書けずに、選手の名前を間違えて記事にしたことがありました。「杉田」と書いたはずでしたが、メモの字はどう見ても「林田」としか見えませんでした。寒い思い出です。

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